17年レイデオロで初ダービーV 後進に大きな示唆与えた藤沢和師

2025年5月30日 05:05

17年の日本ダービー。レイデオロでともにダービー初制覇の(左から)ルメールと藤沢和雄師。右は本間厩務員(撮影・村上 大輔)

 【競馬人生劇場・平松さとし】2017年の日本ダービー(G1)は、藤沢和雄調教師(当時、引退)にとって、忘れ得ぬ一戦となった。

 彼が初めてダービーに挑んだのは1989年。開業間もない頃、ロンドンボーイを送り出して“競馬の祭典”に臨んだ。「それなりに勝負になるだろう」と手応えを感じていたが、結果は22着(当時24頭立て)という惨敗だった。ショックだったのは、単なる敗戦だけではなかった。その後、想像以上に大きな代償が待っていた。

 厳しいレースを走り切ったロンドンボーイは、なかなか回復せず、ようやく復帰しても、わずか2戦を走っただけでターフを去ることになった。「自分のエゴで駿馬の未来を奪ってしまった」。若き藤沢師は、そう深く後悔した。そして、心に誓ったのだった。

 「この時期の若駒に、東京2400メートルのG1は酷すぎる。走らせるべきではない」

 それ以来、出走権のある馬でもダービーには送り込まない日々が続いた。しかし、時代は変わっていった。調教施設は大きく進化し、トレセンはもちろん、外厩代わりの牧場も充実。医学や医療も格段に進歩し、故障に悩む馬は確実に減った。それに伴い若駒の早い時期から動ける馬が増えた。

 環境の変化に背中を押されるように、藤沢師は再びダービーの舞台に挑む決意を固めた。それが2002年。ロンドンボーイ以来、実に13年ぶりのダービー挑戦だった。この年は4頭を送り出し、シンボリクリスエスが2着、マチカネアカツキが3着と好走。翌03年にはゼンノロブロイが2着に健闘。「ダービートレーナー」の称号を得るのも時間の問題と思われた。

 しかし、そう簡単には手が届かなかった。数々のG1を制した伯楽でさえ、ダービーの頂点は果てしなく遠かった。

 こうして迎えた17年。皐月賞(G1)5着から巻き返しを狙うレイデオロで挑んだ。スタート直後は後方に構えたが、向正面に入ると鞍上のC・ルメール騎手の合図で一気に進出。ぐんぐんポジションを上げ、先行集団に取りついた。そして最後の直線では、悠々と抜け出し、歓喜のゴール板を駆け抜けた。

 「道中で動いた時は、“クリストフ、大丈夫かあ?”とハラハラしたけど、さすがは名手でしたね」

 レース後、藤沢師はそう語って報道陣の笑いを誘った。ダービートレーナーの誕生だった。

 ちなみに、この1週間前のオークスでは、藤沢厩舎のソウルスターリングが優勝していた。さらに、その当時、藤沢厩舎で研修していたのが、技術調教師として研さんを積んでいた武幸四郎師だった。レイデオロはダービーの前に早めに東京競馬場入りしており、その最終調整を任されていたのが、他ならぬ武幸四郎師だった。

 「“いい時期に来ましたね!”と、周囲からよく言われました。でも、それは勝ったからそう見えるだけで、勝ち負けに関係なく、藤沢先生のやっていたことは常に一貫していたんです。だからどの時期に来ても学ぶことは本当に多かったと思います」

 そう振り返った武幸四郎師の言葉には、師匠への深い尊敬がにじんでいた。

 藤沢師は22年、惜しまれつつも定年を迎え、静かに調教師人生に幕を下ろした。しかし、彼の歩んだダービーへの長い道のりは、後進たちに大きな示唆を与えたことだろう。

 年に一度の世紀の大一番、日本ダービー。その日が、いよいよ今週末に迫っている。今年はどんなドラマが待っているのだろうか。歴史の続きを、この目で見届けたい。 (フリーライター)

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