【追憶のスプリンターズS】08年スリープレスナイト 涙の上村洋行騎手が「眠れない夜」を打ち破った

2025年9月24日 06:45

08年スプリンターズSを制し、橋口弘次郎師(右)に頭をなでられる上村洋行騎手

 ここ2年、アルマヴェローチェ、ベラジオオペラでG1を3勝。名調教師への道を着々と歩みつつある上村洋行師が、騎手時代に唯一、制したG1が08年スプリンターズS。パートナーはスリープレスナイトだ。

 オールドファンなら誰もが知ることかもしれないが、優勝までの上村騎手の苦労を改めて記したい。

 92年騎手デビュー。同年に早々と初重賞制覇(京王杯AH=トシグリーン)を飾るなど40勝。JRA賞最多勝利新人騎手を受賞した。

 順調な騎手人生を歩んだが、03年に突然、暗転する。「黄斑(おうはん)上ぶどう膜炎」という目の病気を発症。視界が白く濁り、視力があっという間に落ちていった。

 引退も考えたが、手術をしつつ、回復を待った。手術は計4度に及んだ。04年の騎乗回数はわずか「96」。前年の「282」から3分の1になり、調教に顔を出しても手持ち無沙汰な日々が続いた。

 そこに手を差し伸べたのが橋口弘次郎師(引退)だった。大崎昭一騎手、小牧太騎手と騎乗機会に恵まれない騎手に積極的に騎乗機会を与えてきた名調教師が声をかけた。「上村君、ウチの馬にもっと乗ってみないか」

 最初からその期待に応えられたわけではなかった。だが、橋口師は上村騎手を自厩舎の馬に乗せ続けた。そんな頃、橋口厩舎に1頭の快速牝馬が出現した。スリープレスナイトだった。

 上村騎手が騎乗したのは3歳春の5戦目。500万(現1勝クラス)のダート1200メートル戦。好位からあっさり抜け出し、素質の高さを感じ取った。

 その後、白星を着々と重ね、芝でも勝つようになる。08年CBC賞を勝ち、重賞初制覇。これは上村騎手の10年ぶりの重賞Vでもあった。続く北九州記念も勝ち、いよいよ1番人気を背負ってスプリンターズSへと臨んだ。

 「スタートだけ気をつけたい」(上村騎手)。そのゲートをきっちりと決めた。4番手で楽に折り合う。絶好の手応えで直線を迎えた。

 外から2番人気キンシャサノキセキがプレッシャーをかける。スッと前に出てキンシャサノキセキを振り切った。残り150メートルで先頭。調教師席では橋口師が声を枯らす。もう大丈夫。セーフティーリードだ。上村騎手はゴール前から左腕を高々と上げ、楽勝であることをアピールした。

 馬を下り、迎えた橋口師と固く抱き合う。2人の目には涙があった。

 「結果を出せない時も先生はずっと僕を起用し続けてくれた。(G1初優勝の)自分のことより、何としても先生に勝利をプレゼントしたかった」。お立ち台でそう語ると大きな拍手が起こった。

 橋口師はこの日が63回目の誕生日だった。「上村君で勝てたということが最高だね。これ以上に幸せな誕生日はないよ」

 スリープレスナイトとは「眠れない夜」。父クロフネからの連想だ。江戸末期、ペリーが黒船で来航した際、幕府が混乱した様子を風刺した狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず」に由来する。

 だが、筆者は上村騎手が目の手術を繰り返し、将来の自分を案じて眠れなかった夜のことを思ってしまう。眠れない夜を自らの努力と橋口師の後押しで見事に打ち破った。上村師の騎手人生を象徴する馬名であったと思うのだ。

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