蹄音が聞こえた!? 目黒競馬場跡をブラり

2025年5月8日 05:10

「元競馬場前」バス停近くにある大種牡馬トウルヌソルの像

 日々トレセンや競馬場など現場で取材を続ける記者がテーマを考え、自由に書く東西リレーコラム「書く書くしかじか」。今週は競馬担当になって初めての日本ダービーを目前に控え、興奮を隠しきれない東京・出田竜祐(44)が担当する。1932年(昭7)に栄えある第1回が開催された目黒競馬場。幻の優駿の記憶を訪ね、東京・目黒を「ブラタモリ」ならぬ“ブライデタ”。

 目黒駅前のバス停から3つ先。権之助坂を下り、目黒通りを進んだ先に「元競馬場前」という停留所がある。通りの脇に入ると住宅地。かつてここに東京競馬場の前身、目黒競馬場が存在した。下目黒4~6丁目。多摩大目黒中・高の裏にある五差路から住宅街を縫うように不自然なカーブが300メートルほど続く。車1台くらいしか通れない狭い路地。スマホのマップを開くと奇麗な円弧を確認できる。競馬場の1、2コーナーの名残、正確に言うと「競馬場外周の道」だ。人の往来はあるが当然、馬は走っていない。しかし、目を閉じれば馬たちの蹄音が聞こえたような気がした。

 1932年(昭7)4月24日、第1回東京優駿大競走(現・日本ダービー)が行われた。当日は雨。約1万人の観衆が見守る中、19頭が一斉にスタートした。距離は今と同じ2400メートル。1周1600メートルのコースを向正面半ばから右回りに1周半。函館孫作騎乗の1番人気ワカタカが優勝した。馬券は1枚20円で単勝払戻金は39円。当時の平均月給が50~60円というから、ぜいたくな遊びだ。中には複数人でお金を出し合い、1枚の馬券を購入。的中した場合に馬券を預かった人が逃げないように、互いに袂を握り合ったという。

 当時の資料や文献を探して、めぐろ歴史資料館へ。研究員の石井優衣さんと大久保輝優さんから、展示している当時のレーシングプログラムなどの説明を聞いた。1907年(明40)に開設された目黒競馬場。当時の盛況ぶりが「目黒区五十年史」にこう記述されている。「開催日ともなれば、(中略)競馬場に行き来する人びとで溢れ、競馬場の入口わきには貸衣裳屋があり、紋付・袴姿の観衆が多かったといわれている。(原文まま)」。馬券発売が禁止された“暗黒期”を耐え抜き、時代は大正、昭和へ。しかし、都市化の波には勝てず、第2回ダービーを最後に東京・府中へ移転。26年の歴史の幕を閉じた。

 資料館を出ると、都会の街並みがオレンジ色の空に包まれていた。「元競馬場前」バス停の近くには、ワカタカなどを輩出した大種牡馬トウルヌソルの像が立つ。閉場から92年が経過した今なお、在りし日の記憶を後世に伝える。今年で92回を数える国民的行事のルーツ。この街に、確かに息づいていた。

 ◇出田 竜祐(いでた・りゅうすけ)1980年(昭55)9月29日生まれ、熊本県出身の44歳。明大卒。05年スポニチ入社。文化社会部、静岡支局を経て13年4月レース部配属。昨年10月から競馬班加入。タモリと同じく東京都目黒区在住。

特集

2025年5月8日のニュース