【追憶の宝塚記念】91年メジロライアン 23歳・横山典弘の好騎乗で初戴冠「僕の馬が一番強い」を証明
2025年6月11日 06:45 皐月賞3着、ダービー2着、菊花賞3着、有馬記念2着。G1で惜敗を続けた関東のプリンス・メジロライアンが、ついに手にしたG1。それが91年宝塚記念だった。関東の競馬ファンにとっては「ようやく獲ってくれたよ」というのが正直な思いだった。
期待の大きい馬だった。87年生まれの世代にメジロ牧場は有名スポーツ選手や俳優の名前を馬名につけた。当時、現役生活の晩年だったMLBの快速球投手、ノーラン・ライアンから名をもらった「メジロライアン」。だが、前述のように大舞台で惜敗を繰り返した。
最大のチャンスは菊花賞だった。ダービー馬アイネスフウジンは屈腱炎を発症してすでに引退。最大のライバルはダービー3着、トライアルのセントライト記念を4馬身差つけて快勝して臨んだホワイトストーンと目された。しかし…。
同じメジロ軍団、メジロマックイーン(馬主はメジロ商事、ライアンはメジロ牧場)の前に3着に敗れるのである。「メジロはメジロでもマックイーンの方だあ」。杉本清アナはそう叫んだが、この言葉には“関西馬のマックイーンが勝った喜び”が少々含まれていたように思う。関東のファンにとっては“メジロならライアンが勝たなきゃいけないんだよ”という思いが全てだった。
その後もメジロライアンの前にはメジロマックイーンが立ちはだかった。翌年の天皇賞・春。2番人気に推されたメジロライアンだったが、1番人気メジロマックイーンの前になすすべなく4着に敗れた。
マックイーンがいる限り、ライアンは勝てないのではないか。当時、筆者が通ったウインズ後楽園には、そんなムードが充満した。
しかし、諦めていない男がいた。当時23歳、メジロライアンの主戦・横山典弘である。
だが、いつもと同じ騎乗では勝てないことも理解していた。迎えた宝塚記念。横山典は1番枠からスタートを決めたメジロライアンを4番手へと誘導した。序盤に好位にいるのは3歳初戦のジュニアC(1着)以来だった。
そして勝負どころで大胆な策に出る。3角の坂の頂上から動き、坂の下りを利用してスパートした。4角先頭。しかも手応えは抜群だ。一方、メジロマックイーンは4番手の外。武豊騎手は早々とムチを飛ばしていた。
グッと前に出るメジロライアン。メジロマックイーンにもようやくエンジンが掛かった。だが、時すでに遅し。残り150メートルで一気に引き離したメジロライアン。メジロマックイーンの強襲を1馬身半差、防ぎ切り、待望だった初G1制覇のゴールへと飛び込んだ。
ついにつかんだG1。だが、横山典は冷静だった。ウイニングランの最後に馬を止め、9万5000人が詰めかけたスタンドに向かい、ヘルメットを脱いで深々と頭を下げた。それまで見たことのない、荘厳で美しい風景だった。
「この喜びをライアンにも味わわせてあげたかった。頭のいい馬なので理解したと思います」。そして、こう続けた。「今日は今までで一番、具合が良さそうだった。引っ張りきれない気合だったので早めに仕掛けた。本当にライアンは凄い馬ですよ」
メジロライアンで臨むダービーの前。横山典は「僕の馬が一番強い」と話した。その思いは惜敗を重ねても、決して揺らぐことはなかった。
父である横山富雄騎手は71年メジロムサシで宝塚記念を制しており、父子2代制覇の快挙でもあった。しかも、メジロムサシ優勝時の2着はメジロアサマ。当時、「宝塚記念でなくメジロ記念だな」とファンは評したという。
時代は巡り、“横山騎手”のメジロが勝ち、2着もメジロで20年ぶりの「メジロ記念」となった。縁とは不思議なものと言わざるを得ない。
実はこの年、関東馬はG1で敗走を繰り返し、この宝塚記念が関東馬によるG1初V。前年から継続していた関東馬の連敗を「8」で止めた。この日のウインズ後楽園が大いに盛り上がったことは言うまでもない。