【追憶のアルゼンチン共和国杯】06年トウショウナイト ついにつかんだ人馬ダブルの初重賞タイトル
2024年10月30日 06:30 どちらが初めての重賞を手にするのか。直線での叩き合いはし烈なものとなった。
一方は武士沢友治騎手鞍上のトウショウナイト。4歳春には天皇賞4着となったが、その後に骨折を経験。5歳夏からようやく復調の兆しを見せ、前走は京都大賞典3着だった。
もう一方の雄はアイポッパー。トウショウナイトが4着だった天皇賞・春でこちらは3着。その後、オーストラリア遠征を敢行し、コーフィールドC2着。06年天皇賞・春でも4着に食い込み、重賞タイトルがないのが不思議なほどの実績馬だった。鞍上は横山典弘。
右ムチ連打の武士沢。ひたすら手綱で追う横山典。「叩き合いなら絶対に負けないと思っていた」(武士沢)。首差までアイポッパーが迫ったところからゴールまで耐え抜いた。トウショウナイトが人馬とも初となる重賞タイトルをゲットした。
「本当に素晴らしい勝負根性だし、自分も会心の騎乗ができた。重賞を獲るなら、この馬と獲らなければ意味がないと思っていた」(武士沢)
敗れたアイポッパーの横山典は「相手が強かった。4角で少し狭くなるところはあったが、そんなことは関係ない。最後は地力の差が出た」と完敗を認めた。武士沢とトウショウナイトが地道な努力を続けてきたことを知っているからこその、相手を称えるコメントだったように思う。
長い道のりだった。2歳夏のデビュー戦(3着)で手綱を取り、5戦目からは完全に主戦として定着した。3歳秋に本格化して3連勝。前述の通り、天皇賞・春4着までステップアップした。だが、重賞には手が届かなかった。
骨折する不運も重なり、いったんは別の騎手に手替わりしたことも。「どうしようかと思った」と武士沢。だが、再び鞍上へと戻り、重賞奪取への旅を続行した。
この頃、トレセンでのトウショウナイトの鞍上には常に武士沢の姿があった。栗毛の馬に武士沢が乗っていれば、それはすなわちトウショウナイト。当時、美浦に詰めていた記者は全員、そういう認識だった。
武士沢には「好漢」という言葉が似合う。トレセンでは笑顔を絶やさず、記者との雑談に応じてくれた。同期の武幸四郎(現調教師)、勝浦正樹(引退)が早々とG1制覇。アルゼンチン共和国杯を勝った後の「重賞を制したことで、遅ればせながらも追いつきかけているのでは?」という、やや答えにくい質問にも「彼らは凄い。自分は自分のベストを尽くして乗るだけですよ」と胸を張って答えてくれた。
いざ、G1へ一直線。そう思っていたのに…鉄壁のコンビに不幸が襲う。
08年春。天皇賞を4日後に控えた美浦での最終追い。武士沢を背にしたトウショウナイトは残り200メートル地点で突然、体勢を崩した。右第1指骨粉砕骨折。安楽死処分となった。報道陣に囲まれた武士沢は「(話すことは)何もない。しようがない」と絞り出すように語った。
武士沢騎手は今春、JRA競馬学校教官へと転身した。これはJRAのクリーンヒットだ。1勝する大変さを知り、1勝のために調教で丹念に教え込むことを知る武士沢氏は、人馬一体となれる騎手を育成するのに最適な人物。トウショウナイトの鞍上で汗をかいた日々をぜひ、若者たちに伝え続けてほしい。