活字で残していきたいアイヌの馬文化
2024年3月21日 10:00 日々トレセンや競馬場など現場で取材を続ける記者がテーマを考え、自由に書く東西リレーコラム「書く書くしかじか」。今週は梅崎晴光(61)が担当。著書「消えた琉球競馬」がある梅崎の目は、南だけでなく北にも向けられる。活字で記録しておきたい馬文化とは?
5日付で70歳定年を迎えるまで馬とペンを走らせてきた小桧山悟調教師のつぶやきが今でも耳から離れない。“競馬界の巨人”尾形藤吉調教師の評伝を生誕130周年に合わせて書き下ろした一昨年のこと。巨人の生涯と共に近代競馬の歩みもたどった自著を記者に手渡しながら、つぶやいた。「ホースマンや馬の文化を活字で記録しておく、本来ならあんたたち(競馬記者)がやるべき仕事だ」。
競馬記者が活字で記録しておくべき馬文化…。その中には手つかずのものもある。たとえば、アイヌ民族と馬の文化史。“流星の貴公子”テンポイントのトレーナーで、北海道アイヌ協会のリーダーでもあった小川佐助調教師を生んだアイヌの豊穣(じょう)な馬文化である。北海道で馬産の黎(れい)明期を支えたのは日高のアイヌ民族だった。馬の生産がほとんど行われていなかった北海道で本格的な馬産を開始するため明治政府は1872年、7万ヘクタールにも及ぶ新冠牧馬場(後の新冠御料牧場)を開設する。「この時、アイヌをして日高の沢々に群生していた野馬を駆集し、本柵の中に収容したが、その数は実に2262頭」(西舎開村記念誌)。越冬の主食、ミヤコザサが自生する日高に野生していたドサンコを集めて飼いならしたのがアイヌ民族だった。同牧場の拡張に伴い、当地のアイヌ住民70戸が上貫気別(平取)へ立ち退きを命じられたが、1907年、浦河に開場した日高種馬牧場でも馬づくりを担った。近世以前のアイヌ民族の生活圏に馬は見当たらない。乗馬の習慣もなかった。女性騎手による「メノコ競馬」、馬に扮した人と馬方との即興歌劇「ウマカタウポポ」(浦河の芸能)などは明治以降に馬と触れ合う中で育まれた文化だ。
民族差別に直面しながら戦後、新冠御料牧場の土地返還を実現させた小川調教師は栗東トレセンの坂路導入も主唱した。来年は生誕120年。浦河出身の偉大なるホースマンの生涯をたどりながら埋もれたアイヌの馬文化を探っていく。小桧山氏のつぶやきを聞くまでもなく、われわれのやるべき仕事である。
◇梅崎 晴光(うめざき・はるみつ)1962年(昭37)生まれ、東京・高円寺出身の61歳。90年から中央競馬担当、レース部デスク、専門委員を歴任。著書「消えた琉球競馬」(ボーダーインク発行)で13年度JRA賞馬事文化賞、沖縄タイムス出版文化賞を受賞。