【根本康広 我が道28】泣きながら引退届を書く光景 娘のように思っていた弟子・藤田菜七子
2026年10月29日 07:00 菜七子(藤田)の同期にはフォーエバーヤングと世界で戦う坂井瑠星くんがいます。競馬学校卒業式の後、生徒、調教師、ご家族での親睦会がありました。私は壇上で「これから一緒に楽しくやっていこうな」とあいさつ。一方、坂井くんの師匠・矢作芳人調教師は「うちは楽しくなんてない。ビシビシやるから覚悟しなさい」と厳しく話されました。あまりに対照的なあいさつでした(笑い)。ただ、重圧の大きすぎた菜七子にはまずは“楽しく”が大切だったと今も思っています。
少しずつ自信が付いた菜七子は勝ち星を増やしていきます。18年には当時のJRA女性騎手通算最多勝利を更新する35勝。女性ならではの馬への当たりの柔らかさがあったし、スタートは武器でした。19年にはコパノキッキングと出合い、フェブラリーSでG1初騎乗(5着)。重賞初勝利となった同年の東京盃はこっそり大井競馬場のファンエリアから観戦していました。その頃にはもう妻から「子供じゃないんだから、全部のレースに付いていかなくてもいいんじゃない?」と言われるようになっていました(笑い)。ウイナーズサークルで「菜七子!」と声をかけると、本当にうれしそうに駆け寄ってきました。
19年夏、最愛の妻が亡くなりました。下乗り時代から支えてくれて、いい時も悪い時も一緒。その喪失感はかなりのものでした。晩年の妻はとにかく菜七子のことを気にしていました。騎手の妻として誰よりも大変さを分かっていたので。その年の暮れには、菜七子はコパノキッキングとカペラS(G3)を勝利します。JRA女性騎手として初のJRA重賞制覇という歴史的な勝利でした。
菜七子はその年にスウェーデンで行われた女性騎手招待レースでも優勝。国内外で日本の女性騎手のイメージを変えました。女性騎手減量の新ルール、競馬場の施設などハード、ソフト面でJRAの構造自体も変化。何より、サークル内が“女性騎手も乗れる”という捉え方になりました。競馬学校入学を希望する女子生徒たちは、憧れの騎手に「藤田菜七子」を挙げることが増えたそうです。菜七子が苦しみながらも歩んだ道が、後輩たちへの道しるべとなった。今村聖奈さん、小林美駒さんらの活躍はうれしく見守っています。
調教師の定年引退まであと2年に迫っていた24年。菜七子はステッキを置くことになります。「俺の定年までは一緒に頑張ろうな」と話していた直後の引退でした。娘のように思っていた弟子が泣きながら引退届を書く光景は、死ぬまで忘れないでしょう。

