【日本ダービー】浅見厩務員 夢の北海道からナイママと夢のダービーへ
2019年5月20日 05:30 騎手だけでなく、馬主、調教師ら全てのホースマンが夢見る舞台「日本ダービー」。中でもサラブレッドに一番近い距離で寄り添う“親”のような存在が厩務員だ。元厩務員の田井秀一記者が、ダービーに愛馬を送り出す厩務員に迫る大型連載「ホースマンシップ」を5回にわたってお届けする。
7年前。私は北海道・門別競馬場の厩務員として日々、寝わらを取り替え、引き、乗り運動をさせ、馬と毎日を過ごしていた。それが今年は記者として初めて日本ダービーを迎える。人生の不思議な巡り合わせを感じながら美浦トレセンに入ると、足は自然と武藤厩舎へと向いていた。昨年5月に道営でデビューしたナイママ。“同じ”道営出身として、シンパシーを感じたのだろうか。
「かわいい顔をしているでしょ」。そう笑顔で出迎えてくれたのが浅見典幸調教厩務員だ。今年に入ってすでに5戦。道営時から数えて11戦目がダービーとなる。馬房の中からひょこっと顔を出したナイママの瞳は澄んでいる。「転厩時、(柴田)大知さんが“この馬はこんなもんじゃない”と言ってくれたんです。火~金曜は大知さんが付きっきりで乗って、土、日は僕」と振り返る。
札幌2歳S(2着)でニシノデイジーに首差食らいついた素質馬が弥生賞では見せ場なく8着。立て直しの日々が始まった。口向きの矯正、ばらばらになっていたフォームのチェック…。「操縦が利かずにラチにぶつかったりする馬だから最初は怖かったですよ。地獄のような日々でした。でも“この馬は気難しいね”だけで片付けずに、原因を探していくのが僕たちの仕事」。根気強く馬と向き合った。
改善の兆しはすぐに表れた。転厩初戦の皐月賞では後方から脚を伸ばして10着。上位3頭のデッドヒートの陰に隠れたが、手応えはつかんだ。確信に変わったのは見せ場たっぷりだった前走・京都新聞杯(4着)。「本来の力を出せるようになり、馬の表情にも自信が出てきた」と評する。
父親が警察官だったという浅見厩務員。競馬とは全く無縁の環境で育った。大学時代に友人に誘われて初めて競馬場へ。その魅力に取りつかれた。大学3年時に初めて乗馬を体験したという遅ればせながらの“デビュー”で、「どうしても競走馬を育てたい」と強い思いを胸に、就職活動は一切せず、大学卒業後に競馬専門誌に掲載されていた牧場の求人を頼りに北海道へ向かったという。18歳の春、ハローワークで道営・斉藤正弘厩舎の求人を見つけた自分との共通点になんだかうれしくなった。
武藤厩舎ではマッハヴェロシティ(09年8着)以来、2頭目のダービー出走。もちろん、浅見厩務員自身の担当馬では初めての大舞台となる。それでも「背伸びはしない。自然体で」と。その柔和な表情と温かなまなざしは、“親”そのものだった。
◇浅見 典幸(あさみ・のりゆき)1974年(昭49)12月11日生まれ、埼玉県出身の44歳。北海道静内の牧場で約3年間の修業を経て、競馬学校厩務員課程に一発合格。森安弘昭厩舎厩務員を経て武藤善則厩舎へ。馬と向き合う時のモットーは「自分の型にはめないこと。自分が走るのではなく馬が走る」。主な担当馬はユーワハリケーン(05年兵庫ジュニアGP3着)。
◆田井 秀一(たい・しゅういち)1993年(平5)1月2日生まれ、大阪府出身の26歳。阪大法学部卒。野球漬けだった高校卒業後に、道営・斉藤正弘厩舎に所属。厩務員として、引退後の98年菊花賞3着馬エモシオンに乗馬したのが自慢。大学時代はラジオNIKKEI第2の「中央競馬実況中継」でアルバイト。スポニチ入社後2年間はスポニチアネックス記者として芸能を中心に取材し、今年4月から中央競馬担当。