【根本康広 我が道1】競馬とは全く無縁の幼少期 スポーツもせず、ゴジラやモスラ、月光仮面が大好き

2026年10月1日 07:00

幼稚園生のころ、競馬とは無縁の家庭でした

 はじめましての読者もいらっしゃるでしょう。根本康広と申します。1977年(昭52)にJRAの騎手としてデビュー。調教師となってからは藤田菜七子ら5人の弟子を手がけましたが、今年ついに定年となりました。

 半世紀近いホースマン人生。意外と思われるかもしれませんが、競馬とは全く無縁の幼少期を過ごしていました。実家は祖父の代からの古本店兼タバコ店。私はもうちっちゃくてちっちゃくて。東京の古本店が集まる合同運動会のようなものがあったのですが、小学3年生くらいの頃に、間違われて幼稚園生の部に出場させられたんです。当然かけっこではぶっちぎりますよね。「あの子、速い!」と盛り上がっていましたが、幼稚園生が相手なので「当たり前だろ!」と思ったのを覚えています。

 でも母も身長が低かったわけではなく、当時で1メートル60以上はありました。昔の人だからかなり大柄な女性ですよね。若い頃は「西の宝塚、東の松竹歌劇団」と言われる松竹歌劇団でラインダンスなどを踊っていたみたいです。子供の自分から見ても美人なおふくろでした。うちはきょうだい3人とも親父が違い、自分は名字が3回も変わっているんです。昭和の話。あの時代ならそれほど珍しいことではなかったのではないでしょうか。古本店のおじいさんは母の父でしたが、一緒に住んでいたおばあさんは母の実母ではありません。まぁいわゆる複雑な家庭で、めちゃくちゃでした。それだけおふくろがモテていたんでしょうけどね。

 子供の頃はスポーツもせず、ゴジラやモスラ、月光仮面が大好きだった。そろばん教室には行っていましたが、普段は戦闘機や戦車のプラモデルをつくって遊んでいました。当時の物を状態良く保存していたら何百万もの値が付くらしいですよ。タミヤのフォルクスワーゲンの昭和42年版なんかも持っていたのですが、全部息子にあげちゃいました。

 通っていた東京都北区堀船小学校は1学年に7クラスもありました。毎年、学年が上がっても常に下の学年の子に見られていましたね。かなり食が細かったんだと思います。食べることにあまり興味がなかったので、ご飯と味噌汁とお漬物があれば満足するような子供だった。でも母親から「もっと食べなさい」とは一度も言われなかったですね。勉強はそこそこできたんです。友人たちもゆくゆくは慶大や千葉大に行ったりと、頭のいい子が多かったですね。

 中学校はそのまま北区堀船中学校に進学します。極端に体が小さかったのでスポーツに打ち込むわけでもありませんでした。ホースマンによくある北海道の牧場の出身だったり、厩舎人を親に持つわけではなく、まだ競馬の“け”の字も知りません。後に騎手として制することになる日本ダービーも当然、知らない。振り返ってみても、なんでこんな自分が競馬の世界に足を踏み入れることになったのか不思議ですよね。

 ◇根本 康広(ねもと・やすひろ) 1956年(昭31)1月31日生まれ、東京都出身の70歳。77年3月に騎手デビュー。87年日本ダービー(メリーナイス)などG13勝を含め重賞14勝。障害戦でも活躍し、79年にはバローネターフで中山大障害を春秋連覇。JRA通算2633戦235勝。97年に騎手を引退し調教師に転身。98年に開業し通算6420戦218勝。藤田菜七子元騎手ら5人の弟子を育てる。

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